特定非営利活動法人
藤沢相談支援ネットワーク

「美しい」ということ

 遠い記憶のどこかで、「愛は美に流れるもの」と誰かが言っていた。なぜだが、ふとした瞬間にこの言葉が私の中に舞い降りる。
 確かに、そう、人はなぜかいつだって「美しいもの」に魅かれ、引き寄せられ、美しさのマグマに落ちて自分の膿もろとも溶けこみ、時に身を滅ばす。なんという「美しさ」の魔力よ。
 ある人は、歴史のある建築物を「美しい」という。ある人は、新築で汚れ一つない家を「美しい」という。ある人は、野に咲いている小さな花を「美しい」という。ある人は、豪華絢爛に活けられたホテルのロビーにある生け花を「美しい」という。ある人は、土が頬についた汗の光る作業着姿の労働者を「美しい」という。ある人は、お化粧を綺麗に施して純白のドレスを纏った花嫁を美しいという。ある人は、計算しつくされたデザインの遊園地にある庭園を「美しい」景色という。ある人は、手つかずの隣の空き地の猫じゃらしがそよ風に揺れて「美しい」景色という。

 遠い遠いその昔に農家に嫁いだ、働き者の皴しわの祖母の手に魅せられた幼き日。太陽に染められてこんがり小麦色になった皴しわの祖母の手が、小さな小さな体を温かく包み込んでくれた。一つ一つの皴のその様が美しく、幼き脳裏に焼き付く。芸術作品のように、私の魂を揺れ動かし畏怖さえ覚える。祖母の生き様が深く深く手に刻まれ、その生き様に触れた瞬間の恍惚に満ちた世界。「美しい」という時、私はまず祖母の手を思い出す。

 この世界は美しさにあふれているが、神秘に包まれている。たくさんの美しいものたちの姿形に共通点は何一つもない。唯一の脈打つ水脈は、何かに「美しさ」を感じている時、感じている自分の心の深淵から泉が湧き出て満ち満ちている、ということであるのか。とすれば「美しさ」は極めて個人的経験に拠るものであり、「美しさ」は対象に属しているものではなく、対象を「美しい」と感じる自分の心に属していることになるのか。
 いつか誰かが言っていた「愛は美に流れるもの」の神髄は、「愛が深まり、美が見出される」なのか。

 愛は美に流れ、美はさらなる愛を呼び起こしている。なんという素晴らしき循環よ。

(えぽめいく 小松)