2020/07/08
母の洗礼(マリア)1996年7月19日14時
横浜生まれの母の若い頃の事はあまり知りませんが、学生時代はバレーボールや卓球の選手だったそうです。終戦後、結婚してからは仕事に追われる毎日で、晩年はヒョウ柄のワンピースがトレードマーク、寿司とハンバーガーが好きで、休みの日は外出に誘えば必ず付いて来るといったライフスタイルでした。 スポーツや仕事を続けてきたので細身で健康や体力には自信があり、医者も嫌いで健康診断なども受けずにいましたが、さすがに70歳になった時に家族で説得して検診を受けてもらいました。すると全て異常なしで健康そのものでした。これで母の自信は確信となって、その後は検診を受けなくなってしまいました。しかし、ちょうどその直後位に大腸癌が発症してしまったようでした。 それから4年ほどしてから食べ物の嗜好も変わり、食欲不振や体調不良を感じて私の妻に連れられて検査を受けました。結果は妻が先に一人で聞くことになり、末期の大腸癌で余命2~3ヶ月であることが告げられました。 私たちで相談して告知しないでいく事にしましたが、まだ毎日勤めに出ていた母に入院を勧めるために検査入院ということにして、これ機会に退職してのんびりしてもらいたいと話すことにしました。 半ば無理やりに退職させて、翌日に入院しました。検査の結果、腫瘍が大きくなり腸閉塞を起こす可能性が大きくなったため、今後のQOLを保つために腫瘍の摘出術を行いましたが、術後はかなり体力を削がれてしまいました。その後、少しずつでしたが体力を回復しアイスクリームなどを口に含むことができるようになりました。 「いずれ仕事をやめてから教会へ行って勉強して洗礼を受けようと思っている。」と母が言っていたのですが、今すぐにでも母に洗礼を受けなければならないことを、どうやって切り出したものかと困りはてて教会へ行き相談しました。それから程なくしてシスターが病院に見舞いに来てくださり、母に「齊藤さん、お仲間になりましょうよ。」とさらりと洗礼の話をして、母も何の迷いもなく「そうですね。よろしくお願いします。」とはっきりと笑顔で答えました。それまでの気苦労は何だったのかと思うほどあっさりと事が運んでしまい、数日後に神父様が授洗に来てくださることになりました。 しかし、日に日に母の病状は重症になり神父様がいらっしゃる日は、意識もあまりはっきりとはしていないようでした。それでも午後になって神父さまが病室に来られると嬉しそうに歓迎の笑顔を見せていました。 意識が半分朦朧としている母のベッドの周りで洗礼のミサが始まりました。順番に御聖体(パン)を頂いていたところ、最後に母が自分の番が来たと思ったらしく、あまり見えなくなっていると思われる両目を開けて、神父様から御聖体を受け取ろうとして大きく両手を広げたのでした。 この頃は、もう好きなシャーベットも食べられない状態で、御聖体のパンを口にすることは無理だろうと皆が思っていました。神父様も御聖体を全部分けてご自分の分も食べてしまわれた後だったので、皆で驚くやら慌てるやらといったところでした。 しかし、なぜかここまでの間、私は頂いたパンをまだ口にしていなかったので自分のパンを半分にして神父様に渡しました。神父様はホッとした顔で私ににっこりされてから、ご自分の手でパンを粉にして母の口にそっと含ませてくださいました。 こうやって母は天国へ召される4日前に何にも勉強もしないで聖書も読まずに教会に礼拝にも行かずに「マリア」になりました。 母は毎日夕方に見舞いに行く私たちに、病気の不安や苦痛を訴えることはありませんでした。最期まで告知はしませんでしたが、母は間違いなく自分の病気のことは理解していたと思います。その上で最後の母の仕事として私たちに死んでゆく親の姿を見せてくれたのだと思います。 カトリックでは亡くなることを「帰天」と言って、神のもとに召される記念すべきことです。葬儀ミサは藤沢カトリック教会で、母の新しい門出を祝福するように綺麗でかわいい花いっぱいで祭壇を飾りました。御棺の中にも花や大好きなカニも一匹入れて、みんなに送られながら、母と一緒に満たされた時間を過ごすことができました。 それから納骨までのしばらくの間、母の遺骨を教会に安置していただきながら、母には合宿形式でキリスト教や教会のことを勉強してもらいました。