2020/06/03
猫のこと
猫ほど完璧な美を備えたものがこの世にあっただろうか。顔と胴体と足に至るまでの身もだえるほどのバランス感覚で成り立っている曲線美。ビー玉のような妖艶な輝きを放つ瞳。そして、何といってもまるでバレリーナがいるかのような、つま先立ちで歩くその姿。どこからどこまでもが完璧なのである。直線上を歩き、つまづくことも、よろけることもない。まっすぐに前を向いて歩いている姿は、まるでパリコレよろしくランウェイを颯爽と歩くトップモデルさながらである。猫の模様もまた、色味といい、模様のバランスといい、おしゃれの頂点にあると思っている。猫のブチ、なぜその絶妙な個所に黒のブチがあるの?それぞれの猫がそれぞれのおしゃれをして着こなしているではないか。 猫を褒めたたえたところでふと気づく。猫はなぜかくも私を魅了するのか。そうか、ただただ、猫は猫の姿でいるだけ。一人一人違う模様だが、一人一人がとってもお似合いで、そのあるがままの姿で堂々としているその様が美しくさせているのか。そしてただただ私に寄り添う。落ち込んだままの朝、何も言わずほおずりしてくる。ちょっとずるいことを考えた夜、ビー玉の瞳がたちまち暗黒の光となり、私を射抜く。考えを改め迎えた朝、またほおずりをしてくれる。 言葉を媒介せずとも、命と命は交差し合っている。つい、日々垂れ流される、言語を介在する情報の波に埋もれ、人々から表出される言語に頼りすぎる日々。美辞麗句を並べ立て、流暢におしゃべりができても、何も言っていない人がいる。一方、あるがままの姿で存在そのものが輝きを放ち、美しく泰然としていて人々の魂に響くメッセージを放つ人がいる。むしろあるがままの姿である時、人は輝きを大いに放つのであろうか。あるがままにさせないのは社会、いや、社会を構成する私たち一人一人の心の在り方であろうか。 真に人と人が交わろうとする時、真に人を理解しようとする時、言語を超越した「何か」に交わり、「何か」を理解するのであろう。しかし、その「何か」は語りえない。飾りつくされ、「何か」が覆い隠された言語の「前後」の世界が見えた瞬間、この世は景色を変え、時に希望に満ち溢れた世界へと私をいざなう。と、また言葉でどこまでもかっこよく説明しようとしている私、社会、仕事、私という相談支援専門員・・・・。 ああ、もう夕暮れだ。夕日に照らされた街が黄金色に染まっている。 さあ、そろそろおしゃべりをやめて家路へと急ごう。